日比谷線と総武線の両方に八丁堀駅があります。その南側に桜川公園がありますが、ここは桜川を埋め立てたところです。この桜川、古くは八丁堀と呼ばれていました。
桜川を渡る橋はいくつかあり、新大橋通りは中ノ橋で桜川を渡っていました。日比谷線は基本的に新大橋通りの下を走っていますが、それではこの中ノ橋の真下を走っているかというと、そうではありません。茅場橋と同様、橋の西側を迂回しています。その具体的な経路は建設史P.254先の平面図および縦断面図に示されています。新大橋通りの下を南下してきた日比谷線は、八丁堀駅を出ると半径600m右曲線で通りの西側に反れ、中ノ橋を半径163m左曲線で迂回し、半径500m右曲線で再び新大橋通りに合流しています。
建設史P.279図13には八丁堀駅の平面図が掲載されており、駅の上方(現地における南側)は右側(現地における西側)に湾曲して民有地に食い込んでいることがわかります。さらにP.375図79には中ノ橋潜函施工図が記載されており、中ノ橋付近における経路がはっきりわかります。
桜川が埋め立てられたあとも日比谷線の迂回経路は変わっていませんが、Yahoo!地図、Googleマップ、その他の市販地図帳を見ても中ノ橋(の跡)を日比谷線が迂回しているようには記されていません。
以下、現地の状況です。
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この案内図は八丁堀駅構内(八丁堀駅前交差点の真下)に掲載されているものです。駅の左側(現地における南側)に行くにしたがって駅全体が上方(現地における西側)に曲がっていることがわかります。これは建設史P.279図13掲載の平面図通りです。ただし、駅の左上方に記載されている経路(赤?印部)は不自然に屈曲しており、現実と異なっています。
八丁堀駅前交差点の南西角を北側から見た状態です。建設史P.279図13掲載の八丁堀駅平面図と比較すると、日比谷線トンネルはまさにこの地点から民有地に食い込んでいることがわかります。写真中央付近の柱はトンネルと干渉していないはずですが、その先の植込みの陰はどのように柱が並んでいるのか気になります。
写真2と同一の場所を南側から見た状態です。植込みの南側には柱が並んでいませんでした。いちばん手前(南側)付近においては壁面より右側に柱はありません。日比谷線は写真右奥から左手前に走っていますが、うまい具合に柱がトンネルと干渉しないようになっていることがわかります。
写真2および3の建物を新大橋通りの反対側(東側)から撮影した状態です。日比谷線トンネルは写真左に向かって建物の下にどんどん食い込んでいきますが、その上にある建物は入口部と屋外階段で、重量が軽くなっています。
写真4の位置からさらに南下し、南側から見た状態です。私は中ノ橋の中ほどに立っていることになります。奥の方に写真2~4の建物が見えます。左側に見えるクリーム色の建物が新大橋通りから離れているのは、新大橋通りとの間に日比谷線トンネルがあるからです。
中ノ橋(の跡)の南側から見た状態です。細長く空地が連なっていることがわかります。私は日比谷線トンネルの真上に立っています。
写真6と同一の場所(空地:日比谷線トンネルの真上)を北側から見た状態です。こげ茶色の建物は半分以上が日比谷線トンネルの真上になります。
まわりの建物が新しい中で、こげ茶色と茶色の建物が年代を感じさせます。日比谷線はこれらの建物の下を走っています。これ以上の階床の建物を建てるためには基礎を工夫する必要があるため、未だに古い建物が残っているものと思われます。
入船一丁目交差点の風景です。日比谷線のトンネルは、こげ茶色と茶色の建物の下から新大橋通りの下にもぐり込んでいます。
中ノ橋も茅場橋と同様、まっすぐ橋の下を走っていると思っていたら、実は脇を迂回していた…という事例です。
参考資料
1.帝都高速度交通営団編「東京地下鉄道日比谷線建設史」帝都高速度交通営団(昭和44年)
2.東京地下鉄編「東京メトロ建設と開業の歴史」実業之日本社(2014年)
3.人文社編「戦前昭和東京散歩」人文社(2004年)
4.人文社編「昭和三十年代東京散歩」人文社(2004年)