世の中には、線路が消えたあとの線路跡(廃線)、道路が消えたあとの道路跡(廃道)などをたどる趣味分野があります。それと似たような話で、境目が消えたあとの境目跡をたどるという分野もあります。一般的に「○○跡」趣味者は「○○」趣味者よりも少ないものですが、ただでさえ興味を持つ人が少ない「境目」趣味者の中で、どれだけの人が「境目跡」に興味を持つんだろう…と思ったりもします。以下、「境目跡」に関する内容です。
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中野区と練馬区の区境をたどって環七通り付近に来ました。このあたり、区境はほぼ東西方向に走っていますが、おもしろいことに気づきました。
写真1 中野区と練馬区の区境
写真1のまっすぐ奥(西)に向かう道路は現在の区境(左:中野区 右:練馬区)です。しかし気になるのが、左斜め奥に向かう「境目のような筋」(白いブロック塀、斜めにそぎ落とされた建物)の存在です。
写真2 斜めにそぎ落とされた建物(その2)
写真2の建物は写真1「境目のような筋」の延長線上にあり、環七通り東側歩道(中野北郵便局の北)に面して建っています。やはり斜めにそぎ落とされたような形をしています。
写真3 バス停脇の歩道
写真3は、環七通り西側歩道にある「中野北郵便局」バス停付近の状況です。もともと手前(北)の方が一段低くなっていたところに環七通りを緩い勾配で通したため、このようになったものと思われます。一般的には段差があるところすなわちこの写真の手前あたりを左右方向(東西方向)に境目が走るものですが、現実の区境は40mほど北(もっと手前)に位置しています。
写真4 「中野北郵便局」バス停付近
写真4は写真2の建物と「中野北郵便局」バス停の両方が入るように撮影したものです。写真2の建物の南側壁面を延長すると歩道の傾斜が終わったあたりに一致し、ここにも「境目のような筋」があることを感じさせます。
写真5 タクシー車庫
写真5に写っている赤茶色の屋根は、環七通り西側にあるタクシーの車庫です。ここも右(北)の方が一段低くなっており、「境目のような筋」を感じます。ちなみに現在の区境は右奥の白いビルの足元をクランク状に曲がって奥(西)に続いています。
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現在の地図と戦前の地図を対比して判明したのですが、上記の「境目のような筋」は、やはり「境目跡」でした。なぜ境目が現在の位置に移されたかですが、これは1934年~1942年に実施された区画整理に伴うものと思われます。この区画整理前後の状況は越沢明著「東京の都市計画」に記載されています。
写真6 区画整理碑
徳殿公園には写真6のような碑が建てられていました。
境目は人間が作り出したもの。したがって、人間の都合により変化していくものです。街中にはこのほかにも数多くの境目跡が眠っていることでしょう。