足立区の一部は葛飾区だったというお話

 昔線路があったところを探るのは「線路跡」趣味ですが、今回のお話は昔区境だったところを探る「区境跡」に関してです。川が区境だったので「川跡」探索でもあります。

【注記】本書掲載の空中写真は、国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」の写真データを著者が編集・加工したものです。

写真1 区境の昔と今

 写真1は、足立区、葛飾区、荒川区墨田区の接している状態です。赤い線は現在の区境ですが、青い線は1934年までの区境です。ここは古隅田川で、下流は現在の隅田川につながっていました。隅田川下流に両国という地名がありますが、これは武蔵と下総、「両」方の「国」の境目という意味でした。江戸の市街地の拡大に伴い下総(現在の千葉県)の西側は武蔵(現在の東京都)に編入され、国の境目は現在の江戸川になります。

 時代はずっと下って、1930年に荒川放水路(現在の荒川)が完成します。これにより昔からあった川は分断され、水の流れは大きく変わりました。さらに1932年、東京市は周囲の郡部を吸収する形で15区から35区になりました。足立区と葛飾区はこの時に誕生しましたが、区境は元の郡部のままでした。つまり、葛飾区の西側は荒川放水路により切り離された形だったのです。しかし飛地のままでは不便で、1934年に葛飾区の飛地(地名:柳原)は足立区に編入されました。

写真2 足立区柳原

 写真2は現在の足立区柳原です。周囲を取り囲むように「川跡」(③~⑨)があります。数字は以下の写真番号に対応しています。

 

写真3 荒川の堤防

 写真3は荒川の堤防ですが、階段が至るところにあります。川が川の下敷きになって消滅したわけで、不思議な感じです。

 

写真4 区境跡

 写真4は区境の跡であると同時に川の跡です。奥に荒川の堤防が見えます。

 

写真5 理性院

 写真5の右にちらりと見えるのが理性院です。こちらは2年間葛飾区だったわけです。写真左側は最初から足立区でした。

 

写真6 牛田駅北側

 写真6は東武鉄道伊勢崎線牛田駅です。区境跡と川跡は駅の下を斜めに突っ切っています。

 

写真7 牛田駅南側

 写真7は写真6の反対側です。いかにも川跡という感じの道です。

 

写真8 京成電鉄

 写真8は京成電鉄本線の下です。奥には写真7の場所が見えます。

 

写真9 堀切駅

 区境跡である川跡を歩いていくと、東武鉄道伊勢崎線の次の駅である堀切駅(写真9)が見えてきます。駅間距離は500m程度です。ちょうど100系電車が通過していったところでした。

 

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さかいさかιゝ さかτゝ
さかτ さかてつでした…