1.はじめに
地下鉄の営業路線に関しては、多少その経路が違うことはあっても地図に記載されています。しかし、非営業用である車庫線に関しては、記載されていない地図さえあります。東京メトロ東西線の深川車庫線は、どこを走っているのでしょうか?
2.深川車庫線はJRの貨物線の下を走っている
深川車庫は東京都港湾局の埋立地を買収して用地とし、車庫線は国鉄越中島線(貨物線)の下を通しています。民有地の買収を減らしていることがよくわかります。
深川車庫線は東陽町駅の東側で本線から分岐していますが、まず東から南に向きを変えながら貨物線の下にもぐり込みます。しばらく南下したのち徐々に西に向きを変え、貨物線の下から脇にそれて地上に顔を出し、深川車庫に到達した時には完全に西に向かっています。
このあたりは地下40m位までN値がゼロという軟弱地盤です。N値ゼロは「地震発生時に液状化する」「鉄筋を手で簡単に地面に突き刺すことができる」という状態で、陸地ではありますが、水中にトンネルを設置する際に用いるケーソン工法(巨大な角パイプを水中接続)を採用しています。
ちなみに本線から分岐するあたりには昔、汽車会社と津覇車輌工業の工場がありました。
3.車庫線の現地状況
東西線は、貨物線の踏切の少し手前で本線から分岐し、半径120m右曲線(一部半径170m)で貨物線の下に入り込みます。そのまま上下2段積みで走り、深川車庫が近づいてくると貨物線の脇で地上に出ます。
半径120m右曲線付近を拡大したのが写真2ですが、東西線の車庫線トンネル真上には建物がないことがわかります。
東西線の大手町駅から東陽町駅までの区間は、着工1963年6月、開業1967年9月です。深川車庫線も同時に建設されています。
この頃の空中写真が写真3と写真4で、写真2と同一範囲です。写真4を見ると、半径120m右曲線のトンネル工事状況がよくわかります。
永代通の北側歩道から車庫線が分岐するあたりを見ると空地(駐車場)になっています(写真5)。この真下を車庫線が半径120m右曲線で曲がりながら走っています。
ところでこの場所(写真5)には昔、津覇車輌工業の南砂工場がありました。写真4を参照すると、貨物線の西側、永代通沿いに2棟の細長い建物があり、その下を斜めに横切るように車庫線トンネルが建設されている様子がわかります。
津覇車輌工業とは…東武鉄道のファンならばおなじみですね。車両更新や改造を行なう会社です。現在は館林工場と船橋工場で操業しています。
写真5と同一地点で角度を変えて撮影したのが写真6です。色調の異なる茶色の建物が2棟見えますが、いずれも壁面の平面形が階段状です。半径120m右曲線の車庫線トンネルに建物の基礎が干渉しないようにするためです。
余談ですが、私の背後すなわち永代通の北側は、汽車会社の東京工場があったところです。汽車会社は1972年に川崎重工に合併吸収されましたが、東京工場はこれに先立ち1968年に閉鎖されています。それでも東西線が東陽町駅まで開業した時には汽車会社東京工場は存在していたわけです。
津覇車輌工業跡のすぐ近くを貨物線が走っています(写真7)。時たま、永代通の交通を遮断してディーゼル機関車牽引の貨物列車が通過します。
写真8は、永代通から200mほど南の地点の貨物線風景です。写真奥から半径120m右曲線で曲がってきた車庫線は、この貨物線の真下にもぐり込んでいます。地上と地下と線路が2階建てになっているわけですが、とてもそうは見えません。
車庫線は、永代通から500mほど南の地点で地上に出てきます(写真9)。
車庫線は、体育館の脇を上ってきます(写真10)。左手前は深川車庫に続いています。
朝夕は電車の出入りが多いために体育館利用者から文句が出ないのだろうか…と思っていたら、「東京地下鉄 深川体育館」と書いてありました。なるほど。
4.まとめ
東京メトロ東西線の深川車庫線は、汽車会社跡の南で分岐し、津覇車輌工業の工場跡を突き抜け、JRの貨物線の真下に入り込みます。そして、永代通から500mほど南の地点で地上に顔を出します。
以上
ちかてつの
さかてつでした…
【注記】
写真1~4は、国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」よりダウンロードした写真データ(CKT20195-C4-13、MKT636-C9-26、MKT666X-C7B-10)を私が編集・加工したものです。