1.文献確認
建設史P.432先の平面図及び縦断面図によると、佃大橋の基礎を避けて下流側で隅田川を渡った有楽町線A線は、陸地に入る少し手前から半径503m左曲線となり、その後半径500m右曲線で再び都道の下に戻り、月島駅に至ります。
P.459には月島駅の平面図と縦断面図が掲載されていますが、開削工法で建設された駅の端は7番出口から3~40m程度先(北西)で終わり、そこから先(和光市駅寄り)は民有地の下をシールドトンネルで走っています。
2.現地の状況
佃大橋から隅田川(写真1参照)を見ても、月島の町で隅田川護岸(写真2参照)を見ても、有楽町線がどこを走っているかすぐにはわかりません。しかし、よく見ると埋設物表示板(写真1の赤↓印、写真2の赤↑印、写真3)があります。この真下に有楽町線のシールドトンネルがあるわけです。
写真4は、埋設物表示板(写真3)を背にして撮影した月島一丁目の風景です。こうして見ると、真下を電車が走っているようには思えません。
写真4の場所から4~50m進んだところには、こげ茶色の集合住宅と灰色の集合住宅が並んでいます(写真5および6参照)。よく見ると、道路に対して壁面が斜めになっていることがわかります。このあたりは半径503m左曲線の区間で、有楽町線トンネルは徐々に道路から民有地に食い込んでいます。これらの集合住宅の壁面が斜めになっているのは、基礎がトンネルと干渉しないようにするためと考えられます。
一方、クリーム色の3階床の建物(写真5および6参照)は、トンネル真上に建っていることになります。
写真5右奥に写っている黒っぽい建物を反対側(南東側)から見た状態が写真7ですが、有楽町線トンネルを跨ぐように建っています。この建物を背にして撮影したのが写真8で、左側の灰色の建物の下を有楽町線A線は手前から奥に向かって走っています。
写真7および写真8の場所から50mほど月島駅に向かって進んだところにある建物(写真9参照)は、壁面が階段状になっています。これも基礎がトンネルと干渉しないようにするためと考えられます。このあたりから有楽町線トンネルは半径500m右曲線で都道の下にもぐり込んでいきます。
写真10は月島駅B線の和光市駅寄りです。プラットホームとトンネルの曲がり具合がわかります。
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余談ですが、写真8の手前に見えるのは佃島砲台跡の案内板です。江戸時代末期のペリー来航以来、幕府によって品川沖に砲台(台場)が造られましたが、佃島南側であるこの場所にも砲台が造られたそうです。参考資料2に収録されている「明治十一年 実測東京全圖」を参照すると、確かに佃島の南に砲台が記されています。
砲台(現在の月島の一部)の周囲三方は海です。有楽町線は明石町から海を渡って月島(ムーンアイランド)へやってくる電車ということなんですね。
参考資料
1.帝都高速度交通営団編「東京地下鉄道有楽町線建設史」帝都高速度交通営団(平成8年)
2.人文社編「江戸から東京へ 明治の東京」人文社(1996年)